ローカル線=「国民に大負担」 100年前に問題予測 “我田引鉄”に斬りかかった男の主張とは
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近年、突然出てきた問題ではない
ローカル線の見直しが加速しています。JR東日本、JR西日本は2022年に輸送密度2000人以下の路線別収支を相次いで公表し、地域のニーズに合致した持続可能な交通機関とするため、路線の改廃を含めた議論を呼びかけました。
こうした流れを受けて2023年に地域公共交通活性化再生法が改正され、国は全自治体に地域公共交通計画作成の努力義務を課し、ローカル鉄道の再構築について事業者と地域が話し合う「再構築協議会」の仕組みが創設されました。
彼の名は木下淑夫。鉄道院旅客課長や運輸局長を歴任し、現代的な営業制度を作り、国有鉄道初の特別急行列車を設定し、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTBの前身のひとつ)を設立するなど、現在の鉄道の基礎を作り上げた人物です。
鉄道のメリット・デメリット それを100年前に提唱
木下が1920(大正9)年頃に提起した問題意識は現代に通じる、いや完全に未来を見通したものでした。彼は、鉄道は多額の資本を要する交通機関であり、新線建設は沿線住民に少なからず利便をもたらすものの、同時に一般国民に多大な負担を与えるものだと説きました。
そして鉄道に代わる廉価な交通機関はないかと考えた時、社会の大局から見て、鉄道より船舶が有利な部分には海運を、自動車その他の運輸機関が有利な部分にはそれを活用し、最も経済的な交通機関を発達させることが公益に通じると述べています。
鉄道は大量輸送に適していますが、バスやトラックなどの自動車は(道路整備の必要はあるにせよ)旅客や貨物の輸送単位が小さい地方では、鉄道よりはるかに小さいイニシャルコスト、ランニングコストで導入できます。自動車は1台あたりの輸送量は小さいものの、頻繁な運行が可能で、これは旅客輸送で特に有利です。
また鉄道は、住宅や荷主から駅までの二次交通が必要ですが、自動車は住宅から住宅に、倉庫から倉庫に直送でき、途中で積み替える必要がありません。とはいえ大量輸送や長距離輸送は鉄道でないと実現できないものであり、状況に応じて使い分けるのが理想というわけです。
そのうえで彼は、今後、建設すべき路線のうち、貨物旅客が少なく地形上、鉄道敷設に多額の費用を要する場合は、鉄道に先立ち自動車運輸を開始し、貨客が増加した場合は鉄道を建設すればよいと主張しました。
鉄道の特性は大量輸送であり、自動車の特性はドアツードア、フリークエントサービスを安価に実現できることにある。これはまさに今、行われている議論の本質そのものです。
時の政権は「建主改従」論を支持
日本で商用自動車が普及しはじめるのは大正時代に入ってからのことです。T型フォードなどの輸入車販売が本格化すると、自動車教習所が開設され、自動車取締令が公布されました。
全国の自動車保有台数は大正初頭の1000台程度から1920年頃には1万台程度まで増えますが、1926(大正15)年に4万台を超えたように、関東大震災以降にバスとトラックが本格的に導入されます。
木下は震災直後の1923(大正12)年9月6日、48歳の若さで病没していますが、彼はイギリスやアメリカなど、自動車が鉄道に取って代わりつつあった海外交通事情の研究を通じて、日本に本格的な自動車時代が到来する以前から、未来の鉄道像を見通していたのです。
しかし日本初の本格的政党内閣である原敬内閣の時代、ローカル線建設を推進する政友会に一官僚が異を唱えるのは異例のことです。この頃の鉄道政策は、政友会を中心にローカル線建設を優先すべしとする「建主改従」論と、幹線を改軌し輸送力増強を優先すべしとする「改主建従」論が対立していました。
木下は「地方の新線建設の急は何ら特に差迫りしものもないのであるが、既成線の運輸量は目下大正四年頃に比してほとんど二倍に達し、東海、山陽、東北緒線は貨客非常なる混雑を来している」と述べているように改主建従論者でした。目をつけられた彼は左遷され、やがて病気で退官しました。
人々の生活に「交通」は欠かせませんが、必ずしもそれが「鉄道」でなければならないわけではありません。ローカル線の見直し論は国鉄民営化の結果という声もありますが、本当に使いやすい交通機関は何かという議論は、はるか昔からあり、その論点も今に通じるものだったという事実は示唆に富んでいるように思えます。