名作の中の人物描写
STEP 2
堀辰雄『風立ちぬーー冬』より
明け方近く、私は自分のすぐ身近でしたような気のする異様な物音に驚いて目を覚ました。そうしてしばらく耳をそば立てていたが、サナトリウム全体は死んだようにひっそりとしていた。それからなんだか目が冴えて、私はもう寝つかれなくなった。
小さな蛾のこびりついている窓硝子をとおして、私はぼんやりと暁の星がまだ二つ三つ幽かに光っているのを見つめていた。が、そのうちに私はそういう朝明けが何んとも云えずに寂しいような気がして来て、そっと起き上ると、何をしようとしているのか自分でも分らないように、まだ暗い隣りの病室へ素足のままではいって行った。そうしてベッドに近づきながら、節子の寝顔を屈み込むようにして見た。すると彼女は思いがけず、ぱっちりと目を見ひらいて、そんな私の方を見上げながら、「どうなすったの?」と訝しそうに訊いた。
私は何んでもないと云った目くばせをしながら、そのまま徐かに彼女の上に身を屈めて、いかにも怺え切れなくなったようにその顔へぴったりと自分の顔を押しつけた。
「まあ、冷たいこと」彼女は目をつぶりながら、頭をすこし動かした。髪の毛がかすかに匂った。そのまま私達はお互のつく息を感じ合いながら、いつまでもそうしてじっと頬ずりをしていた。
「あら、又、栗が落ちた……」彼女は目を細目に明けて私を見ながら、そう囁いた。
「ああ、あれは栗だったのかい。……あいつのお蔭でおれはさっき目を覚ましてしまったのだ」
私は少し上ずったような声でそう言いながら、そっと彼女を手放すと、いつの間にかだんだん明るくなり出した窓の方へ歩み寄って行った。そしてその窓に寄りかかって、いましがたどちらの目から滲み出たのかも分らない熱いものが私の頬を伝うがままにさせながら、向こうの山の背にいくつか雲の動かずにいるあたりが赤く濁ったような色あいを帯び出しているのを見入っていた。畑の方からはやっと物音が聞え出した。……
「そんな事をしていらっしゃるとお風を引くわ」ベッドから彼女が小さな声で言った。
私は何か気軽い調子で返事をしてやりたいと思いながら、彼女の方をふり向いた。が、大きく見張って、気づかわしそうに私を見つめている彼女の目と見合わせると、そんな言葉は出されなかった。そうして無言のまま窓を離れて、自分の部屋に戻って行った。
それから数分立つと、病人は明け方にいつもする、抑えかねたような劇しい咳を出した。再び寝床に潜りこみながら、私は何んともかとも云われないような不安な気持でそれを聞いていた。