[JP随声录]日本人と魚
[随声录] 读一些外语,但是读了不知道准不准。想到讯飞语音输入法可以把说的转成文字,就拿这个功能来用,比较一下朗读的内容和转换的内容差在哪里。当然同时还有随声译功能就是把读的外语同时转成其它语言。虽然语音转换并不是完全准确,它会存在一定的误差,不过对于我当前的学习水平,AI即使存在这点误差,也并不太影响纠正我的读音。 这一篇文章是《现代日本语(第3册)》第7课的课文。
言葉というものは,生活の深い関わりを持っている
语言和生活有着密切的联系
関わり[かかわり]
動物のラクダは、日本語では「ラクダ」という単語しかない。ところが、アラビア語には同じラクタを指すのにも「人が乗るためのラクダ」「荷物を運ぶためのラクダ」など、それぞれ違う単語があるという。
动物中的骆驼日语中只有「ラクダ」这一个单词,可是据说在阿拉伯语中,同样是指骆驼,却有“供人骑的骆驼”“运货的骆驼”等各种不同的单词,
運ぶ[はこぶ
指す[さす]<他五> 指点、朝向
砂漠に生まれ、人々にとってラクダは生活に欠かすことのできないものだったら,それだけ言葉も細かく使い分かるようになだらしい。
是因为对生活在沙漠里的人们来说,骆驼是生活中不可缺少的东西,所以在语言使用上似乎也区分得这么细
では、日本語ではどうだろうか。そう考えた時、思い当たるのは魚である。
那么日语如何呢?考虑这个问题时首先想到的是鱼
思い当たる [おもいあたる] : 想到,想起
例えばブリという魚は、成長の段階に応じて,ハマチ、メジロなどいくつか違った名前で呼ばれている。こうした細かい言葉の使い分けがあるのは魚と日本人の生活との深い関わりがあるからだろう。
例如鰤鱼按照生长阶段的不同,以哈马奇,梅基罗等几种不同的名称来称呼,语言上分得这么细,大概是因为鱼和日本人的生活之间有着密切的关系吧
日本は海に囲まれた国である,昔から新鮮な魚に恵まれていた。寿司や刺身のように魚の中のまま食べる習慣があるのも、それだけ新鮮な魚がたくさん取れたからにほかならない。 魚は日本人の生活に欠かすことのできないものだったのである。
日本是个四面环海的国家,股生产鲜鱼,像吃寿司或生鱼片,这种使用生鱼的习惯,也无非是因为能捕到大量鲜鱼的缘故 , 鱼是日本人生活中不可缺少的东西
囲む[かこむ]
恵む[めぐむ]
新鮮[しんせん]
ところが、最近、日本人にとって魚はそれほどなじみ深いものでなくなってきたようだ。 台所を預かる主婦の間でさえ、「魚の名前を聞いてもそれがどんな魚なのか分からない 」という人が増えている。
可是最近日本人对鱼似乎不那么熟悉了 。就连围着锅台转的主副中间说是听到鱼的名称,也不知道是哪种鱼的人也在增多
預かる [あずかる] : 担任,负责,参与。
こうした「魚離れ」の原因の一つは,魚屋や八百屋よりも、スーパーマーケットで買い物をする主婦が増えことにある。スーパーマーケットでは、たいてい冷凍で保存した魚お刺身や切り身にし,一人前とか四人前とか、パックにして売っている,最初から切り身にしてある魚から到底泳いでいる魚の姿など、思い浮かべることはできないだろう。無駄がなくて、簡単に食べられるのはいいが,調理の手間を省いたために、魚に対する主婦の関心や知識まで奪ってしまったのである。
人们如此疏远鱼的原因之一,是在超市中买东西的主妇比在鱼店或蔬菜店里买东西的主妇增加了。超市里多是把冷冻保存的鱼加工成生鱼片或生鱼块,包装成单人份或4人份来卖,从一开始就被切成生鱼块的鱼身上,恐怕也怎么也联想不出游动的鱼的形象吧。既不浪费又易于食用当然好。可是,因为节省了烹调时间,却连主妇对鱼的关心和知识都给剥夺了
離れ [ばなれ]
泳ぐ[およぐ]
姿[すがた]
省く[はぶく]:节省,省去
奪う[うばう]
大人でさえ知らないのだから、まして子供ならなおさらである。サケの切り身しか見たことがない都会の小学生が実物のサケを見て驚いという話がある。まさか切り身がそのまま泳いでいるとは思っていなかっただろうが、笑うに笑えない話である
大人尚且不知道,更何况孩子呢,听说只见过生鲑鱼块的城市小学生,看到真的鲑鱼竟大吃一惊,孩子们也许根本想象不出生鱼块会那样在水里游动,这件事真是令人啼笑皆非
なおさら:<副>更加,越发
実物[じつぶつ]
この調子では,日本人は今に、ブリとハマチの区別どころが、どんな魚も区別がつかなくなってしまうのではないだろうか。日本の伝統的な食文化が破壊されつつあるといっても、決して大げさではあるまい。
照这样下去不久,日本人不要说鰤鱼,就连其他的什么鱼都分不出来了吧。说日本传统的膳食文化真的遭到破坏也绝不是夸张吧
破壊[はかい]
大げさ[おおげさ]:夸张